こんにちは。
最近自分はちょっとした激動の日々なのですが、先日、音楽関連の先輩と話をしていて、なんかいろいろ準備期間だよね、と。
予知みたいになってしまうとあれなので明言や具体的な内容は避けますが、おたがいの共通の感覚としては住む場所についてや何をはじめるか=何をやめるか、つまり“頭、内側のなかの整理”。
それもすべてあらゆる意味での「変化」が起点となっています。
個としての「わたし」と全体の織り成すストーリー。
懸念もありつつわくわくもしつつ、
とどのつまりは「何がどうあろうと自分」!
それでは今週のメディスンです。
◆今週のメディスン4/24〜
テーマ:「恐れというギフト」
変革。来るべき何かに向けて手放されるもの
さて、この「おそれ」というテーマ。かなり深いもの、あらゆる意味で人間を動かすもっとも大きな原動力、なぜならこれを避けるためにひとはいろんな行動を起こすじゃないですか。
たとえばこわいからやらない、あるいはこわいからやる、ここでもう大きくその後の物語、体験する現実は変わりますよね。
このとき、いろんなこわいがあって、たとえばひとの目がこわいからやりたいことをやらない場合もあれば、
自分を悲しませることがこわいからやりたくないことをやらない場合もある、
またしかられたくない、孤立するのがこわいからやりたくないことをやる場合もあれば、自分が埋もれてしまうのがこわいからやりたいことをやる場合もある。
つまり、何をおそれているかで変わるわけですよね、世界は。
そして、ここで注目すべきは、その行動はどちらも「自分のため」という考えにもとづいているということ。
けれどざっくり言えば、片方は「自分を楽しませたりここちよさへと導く思考」で、もう片方は「自分をあきらめて苦しみを回避するための思考」(あくまでもざっくり)。
どちらも自分を守るためといえるかもしれないけれど、あらわれてくる現実は真逆くらいにちがってきますよね。
また、この回避としての思考から起こってくる行動は、「力で他者を制する、支配する」というのもあります。恐怖を相手に与えることによって、自分のおそれを回避しようとするわけですね。単に否定批判、暴言暴力という具体的な攻撃だけでなく、無視するとかもそう。
むしろ無視がいちばんきついかもしれない。無反応、まるで相手が存在しないかのようなふるまい。
すごい余談ですけど、以前、自転車で走っている最中、道路のまんなかにすずめちゃんがいたんですよ、で、全然よけてくれない、危ないよ! って声かけても無視、すずめちゃん! って声を荒げると、チュン? とかいって小首をかしげるもののどいてくれない。
あのときはこわかったです、自分、見えてないのかな、自転車なのに? と、揺るがされましたね自分の存在。
それはさておき、
たとえばもうそういう生き方を変えたい、自分変わりたい、と思いながら変わらないのは、実は自分を守ってきた、と無意識に信じ込んでいるまさに「その考えや思い、ふるまい」を手放すことがこわいからなんですよね。
もちろん、変わったらどうなってしまうんだろう、ほんとうに幸せになれるのかとか自分がよくなるんだろうかいまよりもっとひどいことになったら? と、
予想ができない、“わからないこと”に対する恐怖に集約される。
けれど、その思い、想像を支えているのはなんなのか、ということ。
たとえば自分を責め続ける、苦しいのにもかかわらず、自分をだめな人間だと思い続ける在り方。
それは間違いなく自分を傷つけているわけですよね、自分に対する“思いの暴力”だから。
けれどそれをやめないのね、なぜなら自分を傷つけること、だめだと思うことによってもうこれ以上傷つけられることはないだろう、あるいは常に傷ついておく、といった“無意識・無自覚” の防衛策となっているから。
そして、それが「愛」だと思っている場合もある。傷つけ合う関係性。
どちらにしても、潜在的に予想できる現実に生きてるわけです。
急に自分を責めることをやめたらどうなるんだろう、ずっと隠れていた自分、あきらめていたこと、本当はこうしてみたいと思うことを思い切りやってしまったらどうなってしまうんだろう、
と予測がつかないことに対する恐怖、いまとなっては、むしろ傷つく傷つけられることよりも、自らつくりだした“おそれの妄想”から守っているんじゃないでしょうか、新しい経験をさせないようにと。
そして、だめな自分をよくしようとがんばる物語がはじまる。
けれど、根底にあるのは「変わってしまったら何が起こるかわからない」によってそのストーリーは続くんです。
同時に、がんばっているうちは守っているのと同様、傷ついている自分をキープできるというパラドックスを孕んでいるのかもしれない。
テーマがテーマなので長くなってきましたが、
まずは、自分のおそれについてみてみてください。
ほんとうにおそれていることはなんなのか。
だいたいにおいておそれを回避しようとするのは、そのおそれ自体をおそれているからだと思うんです。
でもね、それはおそれを抱くなんて拍子抜けするくらいに、自分を必死に守ろうとしているすごい小さな自分だったりする。守り切れるはずもないのにがんばって守ろうとしてる自分。
その自分を見つけてあげるだけでも、ものすごいギフトだと思うんです。
もちろん、おそれの背後にあるものはもっと素晴らしい何かを孕んでる。
ほんとは、それを知ることがこわいのかもしれない。
そう、自分のほんとうのちからに気づくこと、それをあらわにしてしまうことこそが。
今週と今月のメディスンを出すとき、サポートのカードを引くことがあるんです。
今週にいたっては、Re-birth、つまり「再誕生」というメディスンが出ています。
再誕生って、つまりいままでの自分にさよならすること。
もっといえば、“エゴの死” なのですが、
そこと決別するからこそ、ほんとうの意味で再生となるんですよね。
というわけで、
おそれについてはもっとたくさんのことがあるのですが、
それはまた別の機会に。
とにもかくにも、どうぞご自分を楽しんで。
そのおそれを抱く自分に、興味をもってみてみてください😊
あと、「嫉妬」というものについてちょっとみてみるといいと思います。
自分が他者に対して感じる嫉妬、そして他者から受けている嫉妬。
自分を思いっきり表現できないという、そこに関連する恐怖って、実は他者からの嫉妬のエネルギーだったりすることがある、つまり自分の恐怖ではなく他者の恐怖に怯えているというケース。エンパシー。
どちらにしても、それは「劣等感」や「罪悪感」というものに支えられています。
嫉妬するほうもされるほうも。
そして、その感覚は、果たしてほんとうに自分にとって必要なものなのかどうか。
というわけで、
長々と読んでくださりありがとうございます。一気に消化しなくてOK😊
なかなかエキサイティングな週の予感です、楽しんで✨